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『ライトノベル「超」入門』覚え書き
- 2010/01/07(Thu) -
 本を読んでも内容を細かく思い出せないことが多いので、読んだ本の内容を、簡単に自分なりにかいつまんで書いてみます。だから、書評と言うより覚え書きです。


ライトノベル「超」入門 新城カズマ著 ソフトバンク新書



 ライトノベルを読んだことのない人向けの入門書です。著者は「蓬莱学園」などが有名なSF・ファンタジー小説家(つまりライトノベル作家)で、TRPGの企画などにも携わっているようです。あと、ソフトバンク新書なんてあったんですね。
 ちなみに俺はそれほどラノベは読みません。だから、ここに書いてあることは多くの間違いを含んでいるでしょう。


ライトノベルとは何か?

 まず、著者はライトノベルとはまだ完全に定義されていない物である、と言います。したがって、どんな定義も今のところは完全ではない、と釘を刺しています。その上で、

・ 主な購買層は中高生、副購買層としてそれ以上の人々
・ ジュブナイル小説の後継である(が、教育的側面、文学への入門書としての側面は後退している)
・ カバー絵、挿絵を重要視する(その方が中高生が買ってくれると、主に出版社側が思うから。アニメやマンガとタイアップする場合は当然として)
・ 多くのジャンルを含む(学園物、ファンタジー物、SF物、シリアス、コメディなど)そして、そのいくつかのジャンルを混ぜ合わせることを当たり前のこととしている。(例えば、ハルヒは学園ものでSFもの。コメディタッチな時もあるし、シリアスなときもある)
・ マンガやアニメと同じように、ターゲットの性別でレーベルが分類されている(電撃文庫は男の子向け、コバルト文庫は女の子向け)
・ 一つのレーベル(電撃文庫とか)に多ジャンルがあるのは当然
とライトノベルの実情を挙げています。

 また、副購読層である大学生以上だけにねらいを絞りすぎた作品(簡単に言うと、難しい話)はこけやすいと指摘しています。あかほりさとるも言ってましたが、あくまでも最初の第一巻に全力を注いで、一巻だけ読み終わった時点で楽しんでもらうという精神がライトノベルの成功には必要なようです。


人格か、キャラクターか

 大塚英志も『キャラクター小説の書き方』で書いてましたが、この本でもキャラクターがラノベを作っていると捉えてます。そして、キャラクターを定義するのは内面と言うよりは外面であると。つまり、ラノベ以前の小説では、登場人物が考えや人格で行動する、と捉えるのに対して、ラノベでは、キャラクターはこういう外見や役割(キャラ)だから、こういう行動をする、という描き方が多い、と指摘してます。

 例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』(著者はドストエフスキーもラノベ的であると評してますが)のラスコーリニコフは、自分の思想に基づき金貸しの老婆を殺し、後に自分の良心の呵責に耐えられず罪を認めます。彼は美男子の学生であるというのは行動の原因にはなってません。

 一方、スレイヤーズのリナ・インバースは強い魔法使いなので、盗賊や魔王(邪神だっけ)を倒します。でも貧乳なのでそのことで陰に日向にいじめられます。大食いキャラなので、他人にたかってでも大食します。つまり、演じる役割や外見などの属性から、行動やいじられ方が導き出されます。余談ですけど、貧乳+大食いって鉄板なんですかね。セイバーとかインデックスとか。

 しかしながら、大塚英志もやはりそれだけではない、と書いてます。俺も同じ考えです。例えば、ハルヒは女子高生だから、スタイルがいいから、美形だから、無意識の能力があるからあのような行動をするのではなく、私見ですが、彼女は一度だけの人生を面白く生きたいというごく平均的な願望からあのような行動を取っている物と考えられます。ただ、「待っているだけの女」ではないので、その行動が極端なだけではないかと思うのです。ですから、やはりライトノベルでも内面に基づいて行動しているという描き方が多いと思うのです。

 そう考えると、「ライトノベルやアニメ・マンガ的脚本では、日常(ギャグ回・話が進まない回・民俗学で言うケ)の部分ではキャラクターは属性に基づいて行動し、非日常(主にシリアス回・話が進む回・民俗学で言うハレ)」では内面に基づいた行動が増えるのではないでしょうか。このことについては、いつか書くかもしれません。


ゲームの影響

 筆者は、先ほど述べたキャラクター中心の手法はゲームの影響が大きいと述べています。

 ゲームは(特にノベルゲームは)複数のルートが用意されていたりします。複数のルートがある以上、「主人公はこういう性格である。思想の持ち主である」と最初に決めてしまうと、ルートで全く違う女の子とくっつくことの説明が出来にくくなります。そのため、決定する内面はプレイヤーの物として、属性だけを定義した主人公が増えます。もしくは属性や設定も希薄な場合が多いです。前髪で目が隠れてる場合もありますしね。
例えば、Kanonの相沢君は引っ越してくるまで何をやっていたかはあまり描写がありません。ドラクエシリーズの主人公も作品ごとに過去の設定が増えてきましたが、設定が希薄で、セリフはいくつかの例外を除いて無く、内面の解釈はプレイヤーに任されてます。

 このこと自体にも批判が成り立ちますが(注)、それはひとまず置いておいて、ゲームからライトノベルにもこの属性を行動理由とする描き方が輸入された、とこの本には書かれています。例えば、メガネをかけているから、気弱な性格だとか、理論的な性格だとかそういう描かれかたをするということですね。そして、キャラクターを分類された属性が混ぜ合わされた物として認識する、という段階に至ると書いてます。例えば、でじ子は「宇宙人」「ロリ(ぷち子よりは年上だけど)」「メイド服」「語尾(にょ)」「ネコミミ」の集合体です。

注・FFのセリフが多い主人公や、徐々に内面や過去がわかってくるFateの士郎など例外は多いです。しかし、ウィザードリイのキャラクターのように台詞が無く、プレーヤーが感情移入しないと楽しめないキャラクターの方がゲーム的であると思われます。少なくとも、80年代にゲームを始めた人間ならば。それともう一つ、コンピューターゲームだけからでなくTRPGからの影響というのもあるのではないでしょうか。TRPGがそもそもキャラクターを特徴の集合として描写するのですから。


非ライトノベルのライトノベル的要素

 先ほども述べたようにドストエフスキーが引き合いに出されてます。恐らくドストエフスキーを読もうとした人の大半は、あの京極夏彦の作品以上の本の厚さにびっくりして読むのをやめた経験があるのではないでしょうか(注1)。なんであんなに分厚いかというと、本筋以外の描写がやたらと多いからです(口述筆記させたせいもありますが)。つまり、ラノベで言うキャラ立てさせるための表現やエピソードがやたらと多いのです。手紙で10ページとかもざらです。また、ドストエフスキーのキャラクターはアンチヒーローが多いので、ギレンやシャアのような暗黒面に身を染めた男の魅力も堪能できます。ダースベイダーの魅力を考えれば分かるように、悪の魅力というのはすごいものです。このように、キャラクターの描写と魅力を中心に描いているので、ドストエフスキーの作品はラノベ的である、と筆者は述べてます。(注2)

 また、近代化以前にもメディアミックス的なことも行われていたと述べています。例えば、『南総里見八犬伝』は歌舞伎などにもなっています。ラノベに見られる、絵の重視というのも江戸時代の黄表紙(庶民向けの本)の時代からあったようです。他にも現代ではライトノベルに特有だと思われがちなことが、実は昔もあったと言うことが述べられています。

注1 『カラマーゾフの兄弟』新潮文庫版では、3巻に分かれて収録されていて、合計1962ページです。俺はロマサガ3をプレイしながら読みました。戦闘コマンド入力後は読書してました。

注2 ドストエフスキーもよくいる「小説よりも奇なる小説家」でとても変わった人生を歩んできました。主観も入りますが、足フェチでロリコンでギャンブル狂だと思われます。『悪霊』では、主人公が少女を強姦したことをほのめかす描写があります。若い異性を過度に美化しているのもオタク的かもしれません。


少女マンガの先進性

 ライトノベルから話がそれますが、この本の中では筆者は何度か実は少女漫画の方が、少年漫画などの一般男性オタクが読むメディアより進んでいた面があったのではないかと指摘してます。これはなかなか興味深い指摘で、むしろこれで一冊本が書けそうです。例えば、少年誌に恋愛マンガが現れたのが70年代ですが、少女誌では60年代に既にあったと指摘してます。また、ロリキャラの登場も20年は早かったと書いています。(このことに関しては80年代の「ロリコンブーム(注1)」がよくわからないので何とも言えません)多分、『鋼鉄天使くるみ』あたりが最初の、特に役に立たない少年と、彼を慕い世界を救う美少女(達)、という形式も、男女をひっくり返せば40年前にはあったと書かれています。そういえば、書かれていませんが、女装美少年・男の娘特集本がでたのは最近なのに、男装の麗人は既に『リボンの騎士』ででてましたね。『ストップ!!ひばりくん!』の大空ひばりや『バーコードファイター』(1992)の有栖川 桜(注2)はひとまずスルーすると。百合の一般化(注3)も、やおいに比べると遅かったですよね。

 これらのことが正しいとすると、こういう少女漫画で生み出された物が、あたかも男性向けのメディアで生み出されたかのように思われていることが多いのは、アメリカのポップミュージックの歴史にも似てますよね。黒人の生み出したビート中心の音楽が、ロックのようにジャンルによってはむしろ白人の物と見なされている現状とか。(注4)
しかしながら、この理論が正しいかどうかは相当調べないと分かりません。特に俺は少女漫画にはほとんど無知なので。

注1 1980年代前半にあった模様。私見ですが、この現象は幼児性愛者が急激に増えたことを意味するのではなく、雑誌や映画がロリコンものと銘打って大々的に宣伝した結果、潜在的なロリコンの人がホイホイ映画を見たり、雑誌を購入したのではないでしょうか。別に年下の女性が好きとか少女が好きという人は、いつの時代でも男女を隔離する社会や文化が存続する限り存在する思います。

注2 最初は桜が男であることに落胆した阿鳥改が「男なんや!!!わい、男の桜ちゃんが好きなんや!」と言うところとか、よくコロコロで書けましたね。ちなみに、バーコードファイターの作者の小野敏洋(上連雀三平)はいまではフタナリもの作品では代表的な作家となってます。詳しくはこちら

注3 「百合姉妹」の出版された2002年をもって百合の一般化と考えていいのでしょうか。百合の定義の議論が自分の中でまとまらないので、あとで書くかもしれません。

注4 ロックンロールは黒人のファッツ・ドミノやチャック・ベリーの方が先に始めたのに、白人のエルビス・プレスリーの方がロックンロールの象徴的存在になってしまいました。ジミ・ヘンドリックス以降は黒人のロック・リード・ギタリストは、「黒人っぽくない」黒人のように見られてしまうようになりました。レニー・クラヴィッツのように。女性やアジア人がロックバンドにいるのはよく見るのに、黒人がいることは少ないです(例えば、ピクシーズはフィリピン人のギタリストと女性のベーシストがいる。スマッシングパンプキンズは日系人のギタリストと女性のベーシストがいた)

2010/9/23 再編集
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