魔法少女まどか☆マギカ 友達を放り投げるなんてどうかしてるよ - 魂のありか
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- 2011/02/14(Mon) -
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6話まで見た時点で考えたことを取り留めもなく書きます。解説とか解釈とか書くので、ネタバレします。
6話で、魔法少女になるためには、ただの変身装置だと思われていたソウルジェムが、実は魂の入れものだということが明らかになりました。その時の動揺ぶりから考えて、ほむらとキュウべぇだけがそのことを知っていたようです。
キュウべぇが重要な契約内容を知らせることなく契約を結んだのにも問題がありますし、肉体を遠隔操作することが本当に戦闘に有効であるかどうかも問題ですが、いったんそれらは置いておきます。 キュウべぇと少女たちの根本的な対立の原因は身体観(人間の本体とはなんであるか)に有ると思います。キュウべぇも少女たちもだいたい心身二元論的と言えますが、微妙に生命観が違います。 キュウべぇは精神と身体を分離してもよいものと考えます。精神を壊れにくいソウルジェムに移すことで、身体の致命的な損傷のリスクを下げることが出来るからです。そして、鉄人28号をリモコンで操作するように、外から身体を操作するわけです。 「君たちはいつもそうだね。事実をありのままに伝えると決まって同じ反応をする。わけがわからないよ。なんで人間は魂のありかにこだわるんだい?」 少女たちと身体観を同じくしないキュウべぇから見ると、そうとしか言えないのです。彼は決して嫌味で言ってるわけではなく、本当に理解できないのです。 一方、少女達は体の外に精神を移すこと自体に強い拒否を示します。心身一元論的に、脳や心臓、神経に精神があるとは考えていないようですが、魂を身体の外に移されたことに恐怖し、 「ゾンビにされたようなもんじゃねーか!」 と杏子は怒りを露わにしました。 「こんなの絶対おかしいよ」 とまどかも異議を唱えました。 普通、身体とは絶対的なものです。美しくなくても、臭くても、動きが悪くても自分のものを我慢して使うしかありません。筋肉が欲しかったら鍛える、美しさが欲しかったら化粧をする、肌にいいものを食べる、整形手術を受ける、といった選択肢しかありません。 一方、まどマギの世界では精神が独立しているわけですから、新しい車に乗るように、身体を交換することも出来るかも知れません。つまり、心身がくっついているときには、精神とともに主体である肉体が、完全に客体になることを意味しています。そして肉体を客体として見ることを拒否するのが、少女たちの恐怖の原因であると考えます。身体は掛け替えのないものであるべき、そう彼女たちは考えるからです。自分の身体は自分のものであるという認識の根本を覆されたからです。 付け加えると、年をとらないという可能性もあります。少女は永久に少女のまま。キュアフラワーみたいに年を取らないかもしれませんし、子供を作ることも出来ないかも知れません。Fateの英霊のように生きている限り、全盛期の姿をとり続けるのです。それは理想的とも言えますが、経験を積んで成長することの否定でもあります。同じ魔法少女ものでも、精神的な成長を重視するプリキュアとはその点においても違う可能性が高いです。 まどマギの契約は生ける死体=魔法少女への、後戻りできない変身です。しかし、よく考えてみるとむしろ今までの変身魔法少女の「変身」の方がおかしかったという言い方も出来ます。プリキュアにせよ、なのはにせよ、セーラームーンにせよ、同じ身体を持ち、これまでと同じように学校生活を行うからです(敵の作戦を打ち砕くために必要とあれば学校を休みますが、現実に芸能界でタレント活動している学生よりちゃんと学校に行っているぐらいです)。従来の魔法少女たちの身体は、変身できるという機能が拡張されるだけです。身体において失うものはありません。 一方、まどマギの魔法少女達は精神と結びついた肉体を失います。肉体自体は残りますが、それはいままでような自分の一部ではなくなります。キュウべぇの言うように、精神のみが魔法少女なのです。まどマギでは「変身」という言葉はむしろカフカの「変身」の変身に近いと思います。つまり、元に戻れない、人間社会の中に居場所を見つけられなくなる変身なのです。 (他にも新房監督の旧作から「人形」というキーワードを元に興味深い分析をなさってる方がいます) 他の作品の例 身体を支配されるだけものとする設定はアニメでも極めて珍しい設定ですが、他に例もあります。 『攻殻機動隊』では、多くの人間が完全義体化といって、脳と脊椎のみを取り出し、機械の身体をそれで制御して生きています。そして彼らは、ネットワークを使って間接的に他の身体を動かすことができます。しかし、この場合は本体が他の身体に確かにあります。興味深いことに、この作品では機械的部品では複製不能な肉体的精神的部分「ゴースト」の存在を強調しています。SFですが、完全な人体機械論ではないのです。 主人公の草薙素子少佐は人間の生み出した情報生命体「人形使い」と融合し自らも情報生命体になります。そして、「イノセンス」では敵のアンドロイドを操り、旧友を助けます。この場合は、精神は肉体の中にはなく、ネット上のどこかに存在(遍在?)し、まどマギと同じような状態です。人形使いと融合した精神の方が主だからです。 他の例も見てみましょう。ジョジョ3部で活躍したポルナレフは5部にも登場しますが、敵にあっけなくやられ、霊となり亀の中にいます。しかし、亀に取り憑いているわけではないので、単に死を待っているだけです。 銀河鉄道999も精神の所在地を考えさせられる話です。ある時、主人公は身体が木製身体の人に出会います。彼の身体は焼け落ちて、人間の精神を閉じこめたユニットだけが残りました。「よく見ておくんだよ。機械化すると、人間だった部分はここだけになる。」といったことを彼は言います。そのユニットは脳や脊椎をまるごと入れられるようには見えませんでした。話では出てきませんでしたが、このユニットを他の身体に取り付ければ、ちゃんと動くのでしょう。また、このユニットが他者の魂をエネルギーにしていることが最終的に明らかになります。999の身体論はまどマギに近いと言えます。 最後に魂(や魂がありそうな場所)を移すことで危険を減らすという話が他にもあることを指摘しておきます。例えば、「ドラえもん のび太の魔界大冒険」では大魔王の心臓は大魔王の身体から離して、星として偽装されてます。 北欧神話の不死の神バルドル(不死の神とは少し変ですが、北欧の人は神様も簡単に死ぬと考えたので、彼は特殊な神でした)はヤドリギを投げられ死にます。バルドルは樫の木の神であり、ヤドリギはその魂が宿るところであるので、ヤドリギを折られたからバルドルは死んだと、とフレイザーは解釈しました。 他にも世界中には魂を安全なところに隠していたのに、人に知られてしまったために死んでしまう物語が多いです。モチーフとしては古いものではないですが、だいたい魂や本体や弱点を隠した側が敗北する話が多いです。主人公側がすることでは本来ないのです。 補足・キュウべぇと少女たちの身体観は日本と欧米の身体観に関係しているか 一応、予想される議論として、紋切り型な「日本は心身一元論であり、欧米は心身二元論である」という説明を元に、いかにまどかたちが日本的身体観、キュウべぇが欧米的身体観を代表しているという人もいるでしょう。 しかし、まどマギを見た外国人の多くもキュウべぇに、そして虚淵玄に対して怒ってるようでした。また、「欧米は心身二元論」という言説自体、時代で変わるわけですし、出来るだけちゃんと死体を入れて埋葬したいのは欧米人も同じだと思います。むしろ、日本人の方が火葬をあっさりと受け入れたことが説明できません。日本人の考える身体=骨という説明も出来ますが。 スポンサーサイト
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